村と街をつなぐ

雲ケ畑の集落では、花山椒の佃煮やヨモギの加工、番茶作りなど今では貴重になった手作りの郷土料理が今も作られています。

炭焼きも行われています。

雲ケ畑の伝統産業 炭焼き

●「家より外で焚いた火を炭にして、持ち込んでくるということは革命であった」(柳田国男「雪中随筆」)わけで、薪炭は京中の人々の生活必需品でした。材の供給・生産・集積地のひとつが北山・雲ケ畑でした。伝統遺産として記録し、今日的需要にこたえる方途をさぐるべきでしょう。

●塚本直治さんは「わからんことばかり」と父親譲二さんの経験を頼りにしながら試行錯誤を続けます。百数十㎏の炭を買い取る得意先もあり、飲食業者からの問い合わせ・依頼も多いそうです。需要は十分あるが生産と準備が追いつかないといいます。持ち山にコナラなど落葉樹を植えて雑木山の復活をすすめておられることは大切なことだと思います。


炭焼窯の煙突
炭焼窯の煙突

昭和の雲ケ畑・塚本譲二氏に聞く薪炭と柴の生産

  ●柴は焚きつけの材料として生活に必要なものだったので町の業者が雑木山ごと買い取りに来ていた。金ではなく米と交換していた家もあった。田畑が少ない雲ケ畑だからこその売買方法だった。伐った雑木は大口、小口に切り、枝を払い、雑木山の各所に作られた小集積場所に置いた。斜面を切り開いて作った数㎡ほどの広さの水平面で「コバ(木場)」と呼んでいた。ネソと呼んだしなりのある木(クロモジが最適だった)で結わえて一括りにしソリの様な運搬道具に山ほど積んでおろした。枝は小さく切り太鼓柴にして売った。雲ケ畑産は直径40cmほどで大きかった。女の人の仕事。

●雑木は主に薪炭用だった。大きな山だと順繰りに材が手に入るため移動せず焼いたが材がなくなれば移動を繰り返していた。足谷でもそこここに窯跡が残っている。炭焼きは雲ケ畑では現金収入を得る大切な仕事でどの家でも生産していたと思う。落葉樹が大事にされたのは当然だ。

 

●炭焼きは煙の色で温度を見てタイミングをはかることが大切で、掛かりきりになる。炭は切りそろえ、稲わらで編んだ炭俵に入れて検査に出す。検査官が上・中・下の3等級に分け、等級が決まると薪炭倉庫に保管された。山国では農閑期は炭焼きが盛んだった。炭俵は牛の背に乗せられ井戸祖父谷から祖父谷峠(標高782m)を越え炭問屋の塚本家に運ばれてきた。(塚本譲二氏聞き取り/2017年5月23日から)

山の活用の仕方
山の活用の仕方

山肌に刻まれた山仕事の歴史

史上二度目の「エネルギー革命」(1960年代前・中期)を境にして山仕事は大きく変わる。薪炭需要が急速に落ち込み、炭焼きや薪生産は完全に廃れた。今では雲ケ畑では2基。焼いているのは1基のみ。その後造林運動でスギ・ヒノキ植林・伐採・搬出が山仕事の中心に。

林業は衰退の一途をたどるのだろうか。起きつつある変化の兆しに注目したい。

●写真の山肌からは薪炭林からスギ・ヒノキの植栽林への移行の姿、山の活用の変化が読み取れます。

●新緑の頃は雑木の新緑とスギの深緑が市松模様を描きます。年によりタムシバが薄白く山肌を染めヤマザクラやエドヒガンが紅く点描され、もくもくと新芽が沸き立つ美しい景色が。「杉林が生物多様性を低下させた」とする意見もありますが雲ケ畑ではかつての雑木山が残り生物の生息場所を提供します。


雲ケ畑の番茶づくり

山椒、茶、竹、梅などが植えられています。これが雲ケ畑の屋敷周りの風景。自家消費用です。山椒は、花も実も葉も食用になり、梅は梅干しに、竹は筍としてという具合です。

今日は久保清美さん宅の番茶づくり。ご近所や知人、杉良の丸山智子さんなどが駆けつけました。



「夏も近づく八十八夜」が刈り始めの合図、唱歌「茶摘み」そのもの。天気のいい日を予想して始めるとのこと。「6月の茶はダメ」と教えられていたけど「作り方は誰も教えてくれなかつた。見よう見まねでした、と清美さん。


刈り取った枝は新芽と昨年の葉とに分け新芽だけを蒸し器(蒸篭)に入れて蒸します。時間はだいたい。だいたい蒸せたところでむしろに移します。むしろに並べるとき押切で切りやすい大きさに固めて小分けするのですが、熱を持っているためにとても熱いとのこと。むしろに並べるのはむしろが水分を吸い取ってくれるからだそうです。


押切で切り、むしろに広げ天日干ししてできあがりですが、パリパリになるまで乾燥させます。あとは一斗缶に保存し、必要な時に「ほうろく」で煎り番茶として使う。煎るのがほうじ茶、煎らないのが番茶と一応の区別があるようです。

 

 

「一昔前までは雲ケ畑ではどの家でも作っていた。この季節、むしろが干してあったり庭先で茶を干していたり、これが雲ケ畑の初夏の風景だった」とみなさんは言います。

「送ってくれ」と他地域に出た家族・親戚は催促するそうです。雲ケ畑出身者にとっては懐かしい故郷の味ということです。

丸山さんは埼玉県入間市出身とおっしゃいました。「狭山茶」で有名な茶所。「田舎の味と同じ。懐かしい」と言います。

 

手間がかかるこのような番茶になぜこだわるのでしょうか。清美さんは、「手間がかかるし買った方がはやいという声は当然ですが、伝えていかないといけないとの思いがある」と言います。「なんでもそうやけどはやいだけ、便利だけではいけない。それに無農薬やし」と言います。

文明の利器に取り巻かれた私たちがその高度文明を得るのと引き換えに失ったものがあるはずです。そのことを茜色に染み出た番茶を飲みながら少し考えてみる機会になりました。(N)

花山椒の佃煮づくり

 雲ヶ畑の山々では、4月の中旬から下旬にかけて花山椒の黄色いつぼみが膨らみます。久保清美さんは、雲ヶ畑にお嫁に来てから花山椒の佃煮を作り続けています。つぼみが開ききってしまうまでの3〜4日の間につぼみを摘み取って花山椒の佃煮を作ります。

 つぼみを摘み取る作業は根気が要ります。つぼみが開ききるまでに十分な分を摘み取るために、朝から夕方まで数日にわたって摘み取ります。

 摘み取ったつぼみに混ざっている枯れ葉や枝などをとりのぞく工程を“掃除”と呼んでいますが、掃除は、手を動かしながら、家族、友人、知人などお手伝いに集まった人とのおしゃべりに花が咲きます。掃除を済ませた花山椒のつぼみ約1kgで鍋一杯分になります。

 



始めはお酒を入れて弱火で炊きます。しばらくして、調味の素、濃い口醤油を加えます。続いて顆粒だしとちりめんじゃこを加えて、最後にみりんを入れ、煮汁がほとんど無くなるまで20〜30分炊いていきます。


 出来上がった佃煮は白いごはんにも合うお味です。雲ヶ畑の春の恵み“花山椒の佃煮づくり”はお茶つくりと並ぶ久保家の年中行事です。2013年から、有志で、花山椒の佃煮つくりのワークショップを開催するなど、雲ヶ畑の食文化を町の人にも伝え続けています。